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ここに上あごの八重歯の患者さんがいるとします。
犬歯がとびだした症例です。
さて、「治療方針」はどうなるでしょう。
実際の臨床はそう簡単にはゆきません。
患者さんによってはどれも正答だし、どれも間違いとなるチャンスがありうるのです。
この歯並びは歯の生える場所の不足、つまりスペースが足りないためにおこったのですから、
その不足の程度によっては、上あごを拡大することによって犬歯を収容する場所を作り、治療を終える確率は高くなります。
あごを拡大するといっても程度があります。
左右の犬歯を入れるスペースが完全にないときは、左右で約十七ミリのスペースを作る必要があり、
拡大しきれないとなれば、うしろ隣の第一小臼歯の抜歯が多くとられる手段です。
歯に力を加えれば、歯は動き始めるという説明はしました。
ところで、実際にどういう治療計画でどのような装置を選択したらよいのか。
私の基本的な考え方の例を紹介します。
これだけで歯を動かすのは危険です。
全体のプランにそって、どの歯に、いつ、どんな力をどの程度の期間加えるかが問題なのです。
矯正治療の実際面での、歯やあごの移動に使用する装置とその手順、つまり矯正力の使用計画を「フォース・システム(力系)」といいます。
矯正治療では、乳歯と永久歯は五十二本あるのですから、「治療計画」が余程綿密でないと、治療に失敗してしまうのです。
診断にそって立てられた治療計画と、それを裏付けるフォース・システムの計画が、矯正治療の可否の鍵を握るといっても差し支えありません。
昭和五十七年から矯正治療も口蓋裂に限って、健康保険が導入されましたが、どの装置を使うかの「フォース・システム」の意義を厚生省側に理解して貰うには大変骨が折れました。
健康保険の診療報酬システムに新しい分野が開けたといってもいいでしょう。
こうした自問自答のすえ、治療計画を考え装置を選択し、移動歯の決定、歯の移動量とその物理的矯正力、機能的矯正力の使用計画をめぐらせます。
矯正治療、即、装置の使用では単純すぎて危険だとさえ思います。
幅広い選択肢の中から、いろいろ患者さんの個人的事情も考慮してプランを立てるのです。
専門医にとって、ある意味では楽しい頭脳プレーの時間です。
悪い歯並びといっても、必ずしもブレースがなければ治らないとは限りません。
特に乳歯列や永久歯が生えたばかりの時期では、自然に治る場合もあります。
やみくもに何でもブレースさえ入れれば良いということではないし、どのブレースでも良いというわけにはゆきません。
患者さんの年齢や立場によっては、不向きなものがありうるのです。
おなかが痛いという患者さんに対する治療法は、大きく分けて二つあります。
ひとつは、まず痛みをとることです。
痛いという症状をとることで患者さんを痛みから解放することは、医療の重要な仕事です。
その原因についての治療を行なっていませんので、その症状は何度も繰り返される可能性があります。
このように症状をとることを主目的とした治療法を「対症療法」といいます。
原因を発見し、病気の元を絶つのが「原因療法」です。
矯正治療も同じです。
たとえば、ここに反対噛合の子供がいるとします。
セファロなどの分析結果は、上あごが平均より発育が少なく、下あごはどちらかというと成長が優れているとします。
成長が良くない上あごを前方に引きだす装置がありますが、この場合これが原因療法に近いものと考えられがちです。
一方、反対噛合ですからチン・キャップを使う方法もあり、これがいわば対症療法です。
チン・キャップは、上あごに比較して成長の良い下あごを、多少なりとも抑制しようという対症療法に属します。
前歯の反対噛合を解除することにより、今まで発育が邪魔されていた上あごの前歯が自由に解放されるため、上顎自体の成長が期待されるばかりでなく、今度は下あごの前歯によって、さらに上あごの前歯が前方に押される結果になるのです。
こういう治療法は、ファジーなところがあって、余程確信がなくてはできません。
率直なところ、私も若いころ教授からいま述べたような説明を聞いたことがありましたが、いずれ上あごも成長してくれるなどといったことはかなり「希望的観測」ではないかと不遜にも考えていました。
経験を積んでみて「なるほど」と納得できるようになったのです。
またそのほうが、患者さんの立場を理解した治療法だともいえるのです。
スペースが足りなくて歯並びが悪いという症例や、上顎前突、下顎前突、上下顎前突それに開噛の場合でも、
第一小臼歯の抜歯はかなり高頻度に行われます。
内輪に見積もっても、五○、六これを「便宜抜歯」などと呼んでいますが、用語としては問題です。
本来ならば、「調節抜歯」といった方が当たっていると思います。
歯を便宜的な理由で簡単に抜かれたのではたまりません。
歯は余程の理由がなければ、抜くべきではないのです。
わが国には特に儒教的な精神として「身体髪層これを父母に受け、敢えて穀傷せざる、孝の始めなり。」
(髪や皮層にいたるまで、お父さんやお母さんから頂いたものであるから、これをやたらに傷つけないことが親孝行の始まりである。孝経)
というわけで、年配者には歯を抜くことには根強い抵抗がありました。
その意味では韓国も同じです。
ただ、現在の若い人の間では儒教的過ぎません。
患者さんは自分の希望した反対噛合が治ってきたので、その先生に対する信頼が高くなり、
それによって、患者さんの協力度が上がることが期待できます。
若い先生は、上あごの前方牽引法を好んで使いたがります。
本当にこれも成長の悪いことによっておこった結果の症状に対する治療でしかありません。
その意味ではやはり対症療法な考えは、幸か不幸か激減しつつあります。
有名なできごととして、一九二年の「抜歯論争」があります。
例のA学派が「抜歯不可論」(反抜歯論)を展開し、対するC博士ただ一人が「抜歯不可避論」で防戦したのです。
K博士の意見では、スペースの足りない症例では、小臼歯などの抜歯もまたやむをえない、というものです。
何でも構わず抜いてしまえというわけではなく、控えめな意見なのです。
この論争は、A先生対K博士のものと殆どの矯正専門医が考えていますが、実はこれは正確ではなく、A先生はこの論争には直接参加していません。
M博士です。
彼はいつまでもAのお弟子さんでいるのに飽きたらず、ひそかに自らM学派を作ろうと考えていたふしがあります。
いわばその旗揚げ興業として、この論争はD博士がA学派出身ということで、抜歯不可論の支持者が圧倒的に多かったようです。
圧倒的と言っても、当時アメリカのK歯科学会員数はわずか八十四人で、この抜歯不可論が通用したのは、たった二十年間だけでした。
スペースが足りないのに歯は抜かない、となればあごや歯列を拡大する以外に方法はありません。
極端に狭い歯列なら拡大することも必要でしょうが、あごもやたらに広げて良いはずもありません。
かりに広げても非常に不安定で、時間がたてば後戻りしてしまうのです。
実際に臨床にたずさわっていたお弟子さんは、問に入ってずいぶん困ったに違いありません。
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